旧萱野地区の詳細
地区の概要
旧萱野地区は、かつての西国街道沿いに位置し、東稲と西稲が複雑に入り組んでいる地域です。
この地域は、中世には「萱野郷」に含まれており、「イナ」という地名は、1404年の如法経奉加帳(『勝尾寺文書』)にも記録されていることから、この頃から使用されていたと考えられます。
近世初頭までは一つの村でしたが、1624年から1648年頃に村が分割され、西稲村と東稲村に分かれました。
西稲村は、千里丘陵の北端部に位置し、村の中央を西国街道が通り、千里川が西へ流れています。
1647年の『水論済口証文』に「かやの西いな村」と記されており、その後の『摂津国高帳』にも「西伊奈村」として記録されています。
1803年には、32戸の住民がこの村に住んでいました(村明細書上帳『稲田家文書』)。
一方、東稲村は西稲村の東側に位置し、村の中央を西国街道が東西に走っています。
東稲村と西稲村はかつて一つの村であったため、歴史的な変遷はほぼ同じです。
千里川は、時折洪水を引き起こし、その流れが変わり、地域の景観に大きな影響を与えてきました。
稲地区には、古くからの伝承や歴史的な場所が多く残されています。例えば、稲2丁目には13体のお地蔵さんが祀られており、かつて「ウマヅカ」と呼ばれていた場所です。
自治会と水利の歴史
現在、稲地区は25組の隣組に分かれ、約30軒ずつが一つの組となっています。
戦時中には、隣組は7組に分かれていました。
この地域は、農業が盛んだったため、水利問題が重要でした。
地区には「ミズバン」と呼ばれる人がいて、夜間の水の盗難を防ぐために番をしていました。
かつては、田んぼ1反につきお米で2~3升を水利組合に支払っていましたが、後にお金で支払うようになりました。
神社と寺院
旧萱野地区には、かつて多くの神社や寺院がありましたが、現在ではいくつかの場所に統合されています。
例えば、西稲村にはかつて「シラヒゲ大明神」と呼ばれる神社がありましたが、現在はその一部のみが残されています。また、東稲村には「ゴウシンさん」と呼ばれる神社が存在していました。
地域の文化と伝承
この地域には、古くからの伝承が多く残されています。
例えば、千里川で河童が足を引っ張らないように祈願するために、子供の名前を書いたキュウリを楠に吊るしたという話があります。
また、伊丹城で飼われていた馬が歳を取ったため、この地域に預けられたという伝説も残されています。
箕面市内の物件を選ぶ際に、この地域の歴史的背景が参考になることを願っています。
今後も箕面市内の別の地域についての歴史や文化を紹介していきますので、ご期待ください。
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